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頂きもの 

 

支倉常長 (くろcat様)

 

猿倉越 (武水しぎの様)

猿倉越

「会津を攻める――」
と、伊達政宗が唸るように言った。原田左馬助と片倉小十郎は神妙な顔でそれを聞いた。
政宗家督の祝いにきた仙道諸氏の中に、塩松の城主で大内定綱という男がいた。この男、
「この期にご奉公を」
と言った舌の根も乾かぬ内に、
「伊達殿は頼むに足らぬ」
と言を翻してはばからない。
その大内が頼んだのが会津葦名家である。
なるほど、伊達家の当主とはいえ、政宗若干18歳。しかしその会津の主・亀王丸はわずか2歳だ。
(――あなどられた)
と怒ったのは政宗だけではない。
若くして代々の宿老家を継いだ左馬助もその一人である。太い眉をつり上げて大いに憤慨し、
「この上はその会津を討って、大内に目にもの見せてやろうず――」
と吠えた。
御前へ召されたのは、この放言を主の政宗が聞きつけたかと思えば、神妙にもなる。
とはいえ、会津と事を構えるのは容易でない。
「仙道を経ずに会津、となりますと、檜原峠が順当ではありますが」
片倉小十郎が思案顔で云った。
今までに何度か、伊達家は檜原峠から会津へ侵入を試みた。永祿8年の時には倒木で道をはばまれ、翌年には雪中の油断を誘ったが寒さに破れた。政宗が生まれる前の話である。
峠は谷筋にあり、尾根から見下ろす敵の有利を覆すのは難しい。大軍は細い列となり、数の力を発揮できないまま、列を寸断され、一人ずつ討たれてゆく。そこで当時の当主輝宗は和平策に転じ、妹を嫁にやって葦名と縁を結んだ。
「峠の城は、道をふさぐことに意義があります。真っ向から攻めるは得策ではございません」
そのようなことはわかっている、と言いたげに政宗が爪を噛んだ。
「左馬、そちはどうだ――」
左馬助は磐梯の山麓を想起した。なだらかに見える稜線とは裏腹に、山への取り付きはいずれも険しい。そもそも米沢から直に葦名領へ出る道らしい道は、檜原以外にはないではないか。
小十郎が左馬助の顔をちらりと見たが、言葉が出ないを察してか、再び語り始めた。
「ご存知のとおり、会津衆は一枚岩ではございません。幼君擁立が決まるまでには、お屋形さまの弟君――小次郎さまを御養子に、という話もございました」
「……しくじったがな」
政宗の声は相変わらず憮然としている。この入嗣失敗により、伊達家は会津への影響力を事実上失った。父・輝宗の隠居の理由の一つと言っていい。
小十郎は気にするでもなく言葉を続ける。
「ゆえに、会津のうちでも小次郎さまを立てた衆をお味方になさるが、ようござりましょう」
聞きながら左馬助は、山裾に思いを巡らせていた。

あのあたりはよい山だが、軍を動かすには向かないのだ。軍を動かすには人間だけが動けばいいというものではない。兵糧・弾薬・軍馬・弓矢など運ばねばならぬものがたくさんある。
(猟ならば、かほどに案ぜぬでもよいのだがなあ――)
左馬助は心中で苦笑した。
まったく、あのあたりはよい山で、鹿、猿、兎、猪などが夥しくとれる。狩りに行くとゆきかう猟師にもよく出会うものだ。
この間は解体した熊をかついだ猟師の一隊が、まだ深い雪の残る森の奥から道なき道を踏んで現れた。
どこでとれたか問うと、言葉少なに弓で、山稜を指した。
「ふむ」
左馬助は獲物の熊を見た。毛皮の色つやはよし、
「おれが買おう」
供の平田にそう伝えさせ、肉・胆もともに、屋敷に運ばせて金子を渡した。――それだけの価値はある、見事な熊であった。

「それはよき調儀だが、」
政宗の声が響き、左馬助は我に返った。
「檜原の近くによき者がいるか」
この場合、内応者と峠をはさんでしまうのが早道である。檜原を通らず、檜原に近く、できればそんな在所のものがいい。とはいえ、檜原を通らずつなぎをとれる、という部分が難題だ。
「近くとなりますと、喜多方の柴田弾正、関柴の松本備中、それから――」
小十郎がいくたりかの名をあげたが、左馬助の耳に飛び込んできたのは地名の方である。あの熊をしとめた猟師の一隊――かれらと話した平田がその地名をいってはいなかったか。
「関柴、喜多方ならば、檜原を通らずにつなぎがとれるやもしれぬ」
左馬助がそう、つぶやくように云うと、政宗と小十郎の視線が集まり、ひとりごとを聞き咎められた気分で、目をしばたいて顔を上げた。
「関柴は、昨年叛して葦名の本城に攻め込んだ松本太郎の一族です」
小十郎の声音に興味の色がにじんだ。
「子細を話せ」
政宗の目に射られ、観念して熊の一件を左馬助は語った。
あの猟師の一隊が降りてきたのは、檜原よりも西の尾根である。切り立つような険しい斜面を巻いて歩く。道、というよりは踏み跡というが正しい。
かれらと話した平田が、
「あれは会津者です」
と云った。
「なぜわかる」
「会津の訛です。そう思うて問うてみましたら、関柴から山に入った、と申しておりました」
尾根を越えて熊を射止めたので、かついで登り返すのは難しく、米沢側に降りたのだと云う。あのあたりの猟師はそうした山を越えての行き来がそれなりにあるらしい。
「私も縁の者があちらにおります。さような例はよく存じおります」
平田はそう言って、かれらが帰っていった尾根を見上げた。
「その猟師道を経れば、関柴・喜多方へ出る、ということだな」
政宗が独眼をぎらりと光らせた。
「御意」
「その平田とやら、信用できるか」
左馬助は思案した。親しく使ってはいるが、平田は譜代ではなく、近年流れてきた会津者。しかも左馬助自身家督したばかりで、家中の把握は十分かと言われれば自信がない。
「心底は存じませぬ」
左馬助は正直に云った。
「が、目端の利くやつです。二心はないと存じます」
「ならばよし、だ」
政宗は大きく頷いた。

館に戻った左馬助は、早速平田を呼び、政宗から命じられた調略を申しつけた。
「関柴・喜多方を説いて返り忠させよ」
両者とも謀反人の一族として針のむしろ、伊達からの誘いは渡りに舟なはずだ、と小十郎は言っていた。
平田もそれに同意したが、
「気にかかりますのは――」
と、思案顔になった。
「ご両所とも境目の城ゆえに、他の会津衆が油断なく見張っておりましょう」
「もとより承知。この左馬助が後詰を仰せつかった」
関柴・喜多方が会津と手切れすると同時に、原田勢が援護に入る。合わせて政宗自身が檜原から会津に攻め込む。
これが今回の会津侵攻の手はずであるが、そのためには米沢から関柴・喜多方に至る、兵を通す道を開かねばならぬ。
「――平田、」
左馬助は身を乗り出し、
「道を案内せよ」
下見に参る、と左馬助は、雪焼けが残る顔をほころばせた。
脳裏にはあの熊が残っている。
(思えば、会津は眠れる熊かもしれぬ)
会津守護とまで自ら認じる、巨大な熊。その熊は中興の祖とうたわれた、止々斎盛氏の死後は冬眠したかのように、会津盆地という穴ぐらに籠もっていかに見える。
強敵を追う狩りのような高揚を、左馬助は覚えた。

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